旅行会社社員のツアー同行記~ルワンダスタディーツアー2018夏②~

元少年兵リハビリセンター


「元少年兵リハビリセンター」は、ルワンダで親や兄弟など、家族を殺され、コンゴ民主共和国で少年兵として連れていかれた子供達が滞在しており、精神リハビリを受けながら社会復帰を目指す施設です。ラジオやコンゴ国境付近で配られたチラシなど、何らかの手段でその情報を手に入れた少年らが、誰かに指示されたわけではなく「自らの意思」でこの施設に入所しているといいます。多い時では20名程いるそうです。国境を越えてくるため、自ら志願するも施設へ辿りつけなかった少年達もいるそうです。この施設へは、大津さん、そして現地ガイドの方によるサポート無しでは入れない特別な許可が要る場所です。これまでに出会ったことのない「境遇」の少年らと会うことで、何か説明がつかない緊張が背中に走りました。

「銃を持ったことがない人達」「銃の使い方を知らない人達」


施設は住宅が立ち並ぶような狭い道路に面していました。警備員らしき男性1名が門を開け、私達が乗るマイクロバスは施設内で停車しました。降りて直ぐにの私たちを、彼らはアフリカンドラムの演奏で出迎えてくれました。演奏が終わった後、中心に集まって私たちの自己紹介と、元少年兵らと職員の紹介が始まりました。甲斐教授が私達のことを「銃を持ったことがない人達」「銃の使い方を知らない人達」と紹介した際に、少年たちは笑っていました。銃が当たり前だった生活を送ってきたからこその苦笑だと想像すると、何とも言えない心地だったのをおぼえています。

ここにいたのは10数名の元少年兵と、センター長、心理カウンセラー、コック、スポーツトレーナー、ドラム演奏や掃除を教えるスタッフなどの職員が各1名でした。

「MUNUSUCOに救われて、この施設に送られてきた」


自己紹介後の質問タイムにて、施設に行く決意をした理由について問われると、「MUNUSUCOに救われて、この施設に送られてきた」と答えた少年がいました。あとで調べて分かったことですが、MUNUSUCOとはコンゴ民主共和国に派遣されている世界最大のPKO部隊でコンゴ民主共和国の安定化派遣団のことでした。死者540万人以上と言われるコンゴ民主共和国の紛争では子どもの兵士が戦いに加担させられていたそうです。そして、「何が一番の苦難だったか。」という質問に対して、ある1人の少年は「お腹が減ること。食べ物が手に入らないこと。そして、(おそらく誘拐した人を指して)いつ彼らがまたやってきて連れだされるか分からない恐怖」と答えました。誘拐されて家族から引き離された少年達ですが、10数人中5-6名の少年は、ファミリートレーシングというプロセスの中で再会にこぎつけたといいます。

カウンセリング


カウンセラーの方によると、入ってからは1年ほどのリハビリの期間があり、週1ペースで施設内カウンセリングを行い、外部のクリニックでも月1回のカウンセリングがあるそうです。

様々なカウンセリング法の1つとして「MI(Motivational Interviewing:(動機付け面接)」を行うそうです。少年の中には、人を殺したことのある少年もいました。施設に入ってすぐに、そういったことも含めて、ここに入った経緯など、カウンセリング等で少年らを知っていくといいます。

 肝心の少年達とは「言語の壁」もあり直接的な対話ができなかったのは心残りですが、更にルワンダ虐殺の「第2幕」「第3幕」であるコンゴ民主共和国紛争について知りたいと思うきっかけとなりました。

国際社会のフロンティア~コンゴ民主共和国国境付近~


ルワンダとコンゴ民主共和国の国境には、「経済的国境」と「政治的国境の」2つの国境が存在するそうです。

国境付近には改札口のようなゲートがあり、私達が訪問した時には故障していましたが、ここでICカードのようなものでタッチして、ルワンダから出国するそうです。訪問時には比較的すいているとのことでしたが、出稼ぎに行く人々なのか、生きた鶏を十数羽の足を紐でくくったものを担ぐ男性や、肥料袋に何やら詰めた袋を持っている人々等、とにかくひっきりなしに人々が移動していました。

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ルワンダから見るコンゴ民主共和国


私達が立っているルワンダから見るコンゴ民主共和国には、簡易的なトタン屋根の家のような建物が立ち並び、一本の道に車と多くの人々が行きかっていました。またゲート付近にはユニセフのテントがあり、衛生管理のため通る人々が手を洗うための水タンクが置かれていました。すぐ側には大型輸送機が発着できる滑走路があり、小さなプロペラ機がちょうど着陸態勢に入っているところでした。このコンゴ民主共和国・ゴマの難民キャンプにはルワンダから多くの人々が流れ込んできたそうです。まさにルワンダ虐殺の「第2幕」「第3幕」の地です。

今年に入って9回目となるエボラ出血熱が流行しました。出入り口となるゲート付近では、熱を測る機械を持った人が立っており、そこで40度以上の熱を感知した場合は入国できないそうです。

大津さんはこのように話していました。

「コンゴ民主共和国という国は貧困もあれば、感染症、戦争、劣悪な環境。資源もあれば作物もある。平和以外のものは全部揃っている。」
まさに「国際社会の辺境の場所」だといいます。

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ウムチョムイーザ学園~マリールイズさん~


ウムチョムイーザ学園は、戦争で心身ともに傷ついたルワンダの子ども達に、教室で学びながら、夢を取り戻してほしいという願いのもとに、幼稚園・小学校をルワンダのキガリに建設されました。

学園を建設・運営されているマリールイズさんと出会いました。結婚を機にルワンダに移り住み、ルワンダ・キガリで洋裁の教師をしていたそうです。青年海外協力隊カウンターパートナーとして福島文化学園にて洋裁の研修を受けに日本にやってきました。福島に住む80代の女性のもとで暮らしながら日本語を勉強したそうで、マリールイズさんは日本人より日本語が上手いという印象でした。「福島弁」も操れるそうです。話し方は柔らかくも、内から出る力強さを感じる女性でした。

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「近代化するルワンダだけを見てもらっては困るんです。」


1994年2月にルワンダに戻ってきましたが、その時点で「ルワンダの異常さ」を感じたそうです。そして、1994年4月7日に内戦が勃発しました。その当時、危険を感じたマリールイズさんは、自宅から難民キャンプまで50キロ以上もの距離を子供3人を連れてひたすら歩いたそうです。たどり着いた難民キャンプにいた日本のNGOと出会い、そこで日本人医師の日本語通訳を募集していることを知り、そこでマリールイズさんは通訳として難民キャンプで過ごしたそうです。その際に、マリールイズさんは「神が守ってくれたと感じた」といいます。

マリールイズさんは「近代化するルワンダだけを見てもらっては困るんです。人々の心の悲しみをみてほしいのです。」と話していました。内戦を体験した子供たちが親になり、子育てや日常生活で様々な困難があるといいます。現在もトラウマ的要素が様々なところで残っていることを物語っていました。

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戦争未亡人女性自立支援NGOアヴェガアガホゾ


 戦争で未亡人になり、サポートを得られなかった女性の心のリハビリ、そして就職支援などを行っているアヴェアガホゾは、1995年に活動を開始し、現在は国レベルで組織を持っています。ここでは4つのサポート(1.生活設計 2.健康管理やカウンセリング 3.経済的な問題などのサポート4.能力開発)が行われているそうです。最初のステップはカウンセリングから始まり、その次に就業支援などをしているとのことです。南部の地域ではグラミン銀行のようにマイクロクレジットを与えて、生計に充てたりスキル支援につなげるといった内容のプロジェクトも行っているそうです。ここで自立支援プログラムを受けた女性の中には、政治家になった方もいるといいます。

説明を聞いたフロアには、女性達が作ったというビーズアクセサリーやアフリカらしい色彩と柄の布を使ったエプロンなどが机に並べられ、そこには7~8人の女性がいました。長身ですらっとした体型で、茶色いワンピースにピンクのカーディガンを羽織った女性が印象的で目に止まりました。私は、自分が本当の意味で想像しえない過去を持つ女性ということもあり、話しかけることに躊躇していました。参加者も私も何かもどかしい気持ちで「話したいけれども、何から話はじめたらいいのだろう」と、そんな思いを抱いていたように思います。そんな時に大津さんが「遠慮なく話して」という言葉で皆の背中を押してくれました。

参加者の数人はアヴェガの女性数人と椅子で輪を作り交流していました。私は最初に印象的だった1人の女性に近づき、お互いの自己紹介から話を切り出しました。18歳~34歳の子供を5人持つ56歳の女性でした。簡単な自己紹介を話したのち、彼女から「私の家族について」聞かれました。私の家族のことや、何の仕事をしているかなど様々な事柄を話しました。アヴェガでの生活についてきいてみたところ、その女性は「ここには本当に助けられている。精神面でも生活面でも。ここにいれば1人ではない。皆がいる。」と答えました。

さいごに


冒頭に示した3つのテーマ(過去からの復興・教育/子供・新たな発展)に沿った様々な施設に行き自分の目で見て、大津さんのリアルな話を聞き、施設の方々や現地の人々との対話し、様々なことを考え感じたまさに『五感をフル稼働』させた9日間でした。

 1994年4月6日に発生したルワンダ虐殺は、私が生まれた後に起こった出来事でした。その当時幼い私が普通に生きているころに、未来があったはずの同じ年代の親、同じ年齢の子供が「残虐な」方法で殺されたという事実、そして同時に「殺す側」にいたという事実には、やはり感情的にならざるをえませんが、そこで大津さんのお言葉を思い出します。

「エモーショナルも入口としては大事だが、リアリティで完結させること」
目をそらさずにその事実を知りつづけることが大事なのだと思います。

今回見てきたものはルワンダのほんのひとかけらであり、対話した人々もほんの一部かもしれません。しかし、今回行かなければ知らなかった今現在ルワンダに住む人々のわずかなストーリーは知り得えませんでした。リゾート地で過ごすようなリラクゼーション的な贅沢さとは異なるが、学びという面で大変贅沢で、9日間という短期間でも見ごたえ十分なツアーでした。少しでも興味を持った方は是非こちらのページを覗いてみてください。


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